他人がキラキラして見えるとき

考察してました。

 

人生って枠の中では

良いことも悪いことも

順繰りだよなってことを。

 

私自身が若い頃は

箸が転がっても笑う方でした。

 

勿論その時の苦労も自分なりにはあって。

その当時での他人様からの

嫉妬や妬みもありました。

 

でも当時から私としては

 

寝れば忘れる✨とか

ハイ!次!✨とか

 

そんな性格をしていたのですが

同じように出来る人は

少なかった気がします。

 

今はそう考えると

私的なサボ世界という

ちょっと変わったものだけど

 

痛かったり苦しかったりのを

 

今、

 

順番的に巡ってるだけなのではないか?

とも思うようになったのですよ。

 

勿論、今は今の幸福もあるわけで。

これまた不思議に他人様からの

妬みや嫉妬もあるわけです。

 

主観的な幸不幸関係なく。

他人様から見た幸不幸も

まったく当てにならないな、と

思ったわけです。

 

どっちが主体ってよりかは

サボの痛み苦しみを体感することで

 

こんな世界もあるんだなあと

 

苦しい割にはどこか俯瞰する

自分の感情、脳みそもあるわけなのです。

 

そんな時に思い出したのが

結婚するときに言われるあれ。

 

 

富める時も病める時も

 

 

ってあの言葉。

 

 

今は多分、

 

富める時だけがいい

 

ってなってるし。病める時のが

 

 

お互いに支え合いきれない状態

 

にもなってきているのではないか?

 

とも思った次第です。

 

共に、ってより

個々に、を

結構感じます。

 

時代の流れだから

どちらでもあり、ではありますが

 

それが多分ちょうど混ざって

 

こっちだ!

あっちだ!

 

ってのを目にすることが増えている

ちょうど過渡期なのではないか?と

思うことが増えました。

 

 

そして私自身は。

 

 

サボ世界での

苦しみや痛み、喜びや楽しみの

体感そのものに関しては

良いとも悪いとも判断するものという

感覚ではなくて。

 

こちらの機嫌が良ければ

そこそこ俯瞰していられるし。

 

こちらの機嫌悪ければ

ブチッとキレるし。

 

そう考えるとこれも波なのだなあと

思うわけです。

 

ただ。

 

体感することで、

 

 

こんな思いしてたの?!

(特に苦しみや痛みの方)

 

ってが頭だけではなく経験として

理解できることは大きいとは思います。

 

私にとっては

知らない世界ではあったからです。

 

 

なんでそんなんで悩むの?とか

なんでそんなんで苦しむの?とか。

 

 

今も理解は難しいのですが

痛みと苦しみの感情が来るので

 

こりゃ辛いよな、

 

なのは身をもって

理解はできるようになりました。

 

物理的な経験と一緒ですね。

 

スピリチュアルの精神的肉体的に

過酷な一面の方です。

 

文字だけ言葉だけ、歴史も紐解いて

このときはこうだったのか、も

そうなのですが。

 

その時その瞬間の

喜怒哀楽が流れ込んでくるのは

精神力と体力とを

かなり必要とするんですよね。

 

もしかしたらこれからは

 

それすらも経験として

求められていくのかもしれないなあ

 

とふと思ったのでした。

 

アトラクションではないですれけど

そういう方向になるのかもしれません。